そうか、女は精神で生きてるからめんどくさいんだ。


私は未読の小説を本棚に入れない。机の上に置いといて、読んでから本棚に入れるようにしてる。
で、机には常に自分で買ったり、友達から借りたりしてる小説が山済みになっているのだが
机の上に山済みになっている小説は、なんとなく上から読んでいるので
今回はこれ、次はこのジャンルとかまったく考えないで読んでいる。


そんな感じで今回は、たまたま山積みにされた小説の作品が立て続けに「女の本性」を題材にし、
それでいて環境がまったく違う状態でありながら、登場人物のエゴ丸出しの貪欲な精神力を
これでもかと見せつける内容で、なんともまぁその濃い内容ときたら、
胸焼け起こしそうなくらい「女」を堪能できてうんざりできて
尚且つ、その作品の「女」の部分をいろいろと比較したりすることができて、
意外なとこで楽しめてしまってラッキーと得した感じになった。(あー長い前置き)



谷崎潤一郎 「卍(まんじ)」


内容は、夫がいながら、光子という男達を翻弄する美女に惹かれていく園子の同性愛を関西弁で綴っている作品


いやぁ〜、読み終ってのまず一声が「濃い!!汗」
もう同性愛っつー内容からして濃いんだけど、これが関西弁で繰り広げられるから更に濃さが増す。
それを狙ってか、作品の中の要所要所で、これでもかってくらいのクドさをアピールしていて
例えば、技芸学校での観音様の写生への理屈とか、二人がやり取りする手紙の内容と便箋、封筒の柄や色
周到に用意されている会う為の言い訳、園子と光子の互いの呼び名、
一度離れた園子とよりを戻すための光子の作戦、光子に執着する綿貫の策略
綿貫を遠ざける作戦、園子の旦那と三角関係になってからの光子の暴走そして最後。


読み終わった後に、胃薬欲しくなるようなクドさに圧倒されてしまった。汗


この作品の「同性愛」って、なんというか「秘密の共有」からくる「結束」というか
後半にロミオとジュリエットみたいな場面からして、「いけないことをしている二人」が
周りを振り回して酔いしれている感じで。二人の関係にまるで純粋さを感じ無くて、
どうもそろいもそろって、退屈な日常をいかに刺激的に過ごすかに命かけてるような邪推さが感じられる。


光子って、我を忘れてまで溺れるほどの魅力的な女性にどうも感じないんだよね。
園子は光子に嵌っていくように自ら暗示をかけているようにもみえるし
光子の人を惹きこむ性質も元から備わってる感じではなく、園子が勝手に作り上げているような感じで
最後の方で薬に頼るとこも、その人間の持つ魅力ではなくなってるし
振り回されながらも、どこか冷静に今置かれてる状況を分析したりして
どうも、光子という女性像がぼんやりしていて掴めない印象があるんだけど


だからこれは、夢物語だったということなのかな?


ああ、でもそうか。人は誰しも好きな人を妄想し
自分の都合の良いように仕立てながら思いを募らせていくもんだもんね。
つまり、イメージが大切よ〜♪(キョン×2)人を崇めるには現実を偶像に作り上げる作業がいる訳だ。


現実はいつだってつまらないものだもんね。


以下、↓この作品にもそれが共通している部分である。



三島由紀夫 「愛の渇き」


旦那を亡くした悦子が、その旦那の父親である弥吉に身を預けながらも、園丁三郎に惹かれていく物語。


しかし、どうしてこうも三島は、愚かで腹黒く、救いようの無い女の醜い部分をわかっているのだろう。
谷崎はそんな女の醜さも全部、崇拝して受け入れてしまうだけども
三島は無情なまでに叩き落して、侮蔑している。
そしてこれを余すことなく書けるってことは、やっぱ三島は女だな 笑


この悦子、もうエゴ通り越して病気だよ。自分だけしかその世界に居る事を許してない。
これはなに?夫への復讐なのかしらん?
亡くなった夫に愛されなかったことからすべてが始まっているとしたら
その夫の身内である家に上がりこんで、舅の言い成りに飼いならされた振りをし、
その一方で勝手な思いを三郎に押し付け、思いが伝わらない悔しさに取り乱して周りを困惑させる。


これまた三郎の神懸り的な鈍感さといったら。実直とは愚直なのか?
周りから見て恋仲であったであろう美代の存在も、あっさりと拒否できて
「愛」という言葉がその人に必要であれば、気持ちが無くても愛を伝える事ができる単純さ
愛を乞う悦子を見て「莫迦に気位の高い乞食」とまで言えてしまう最強さ。


うんうん、殺してもたぶん三郎には敵いません。


つーか、この二人が分かり合える日など無いと思うんだよね。
悦子は、どんなに自分が愛して欲しくて、それを願って追いかけても、愛されるどころかそれに満足する事はないし
三郎は、愛し愛されるということなどを考えなくても、常に自分は愛されていてそれが当然な事であるのだから
拒否された事の無い人間が、拒否された人間を理解できるわけなどないのは当然で


自分の想像を越えた出来事が起こった時、初めて人は「なぜ?」と考えだすように
悦子は旦那と結婚してから「なぜ?」の連続であって、その「なぜ?」は三郎にとって
ごく自然に与えられることであるから、それを考えるということなど、全くしなくてもいいのである。


そんな人間には、どんな理屈を揃えたしても勝てないよ、だって自分の欲しい物を持っちゃってんだもん。
金のある人に貧乏な人の気持ちがわからないのと一緒
つまり「パンがなければお菓子を食べればいいじゃないの?」ですよ、悦子の魂はド貧民でしたとさ。


そんな感じで2作品の共通する部分が「貪りたいほどの愛欲」であって


園子も、光子も、悦子も(全員“子”ついてるじゃん!)
求めるものを骨までしゃぶりたい。つーか骨も噛み砕いて自分の身にしたい
欲しくて欲しくて、すべてを吸収してやろうとするその様って
「ああ、女は不死身に近いな」って、肉体は滅びても魂は生きてますよーって感じで
その魂が「愛」という言葉に取り憑いて、死んでもまだ生きてる人間を苦しめる訳だ。


だって女は、肉体の欲求を単純に求める男と違って、精神で生きてるんですもの。


精神は肉体よりも早く渇き。情熱は、肉体よりも冷めにくい。
その情熱のくすぶりに孤独という風が吹き込み、孤独によって燃え上がり
炎上したその精神は、常に水という愛を欲するのである。


とまぁ、そんなこといってみましたが。ただ単に悦子も光子も暇人なだけですよ。
まったくぅ〜、女は本当にめんどくさいですね。(自分も女ですが)


さて、やっと小説感想おわた。


月末には、ごっそりと漫画が来る手筈になっております。
楽しみぃ〜